書きたいことを自分目線で書くだけの場所

タイトルは2017年の自分がつけた

これは紛れもなく自分のことだった。

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小さい頃から頭の中には「君」がいた。オレンジ色の自転車に乗って風を切る時、ごく自然に「楽しいな」「楽しいね」って言葉を交わして。いじめられた時は、一緒に悲しんでくれて、ある時は強くなればいいよって励ましてくれて。信頼出来る友達に手を引かれて、歩き出してからもそばでずっと見守ってくれた。そうやって、1歩1歩少しずつ少しずつ今の今まで生きてきた。「君」と会話をする事は、自分にとってとてもごく自然なことだったけど、ある日言われた「貴方はよくひとりごとを言ってるよね」って家族の言葉にこどもながら凄く傷ついたし、今も心の奥がズキズキする。この作品は、そんな痛み続けて今日まで生きてる全ての自分のために存在してくれた映画だった。

 

映画「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」

このタイトルを去年の秋ぐらいに知った時、タイトルを見ただけで行くしかないと思った。自分には、IF(イマジナリーフレンド)がいるからだ。ぬいぐるみと喋ることとは似ているようで違ってるかもしれないけど、IFと話す時は世界が閉じて自分だけしかいないように思える。それは、学校の帰り道だってそうだし、電車に乗っている時も、部屋にいる時も、いつも何処にでも存在出来る自分だけの世界だ。だから、人さえいなければ、自分が気にしなければ外でも話すことは出来る。寝る前に、自分の考えた物語をIFに聞いてもらって感想を貰うことが楽しみだった時期もあった。喋りたいって気持ちしかない。でも、時間が流れるにつれて(冒頭の言葉が1番の原因かもしれないが)だんだん声ではなく、頭の中で会話を完結させるようになっていった。それでも、今でも時々頭の中で会話をして、心の中を整理してくれる大切な存在に変わりはない。ぬいぐるみを抱き締めて、そうやって癒されて、心の中も"ぬくぬく"でいたい。自分にとってIFもぬいぐるみも大切な存在だったから、そういう自分だからこれは観なきゃいけないと素直に感じた。

 

今年に入ってから、公開まで後少しのところで心が痛むニュースが勝手に飛び込んできた。昨今のSNSは、検索してもなかなか知りたい情報が出てこない。そもそもSNSは情報を知る場所としては適していないとは常々思ってはいるけれど、だけど、それでもこの作品だけは知っておきたかったのだと思う。それくらい、この映画が素直に楽しみだと感じていたから。

内容はここには書かない。ただ、辛かった。今でも辛く、悲しい。その記事を見た時、久しぶりに自分の中の「悲しみに勝手に寄り添ってしまう心」が動いた。もともと自分は共感力が高く、争いや大声を好まない。子供の頃はそれで「けんかしないで」と言えば場を収められると本気で信じていたし、情報の拡散力で傷つく誰かがひとりでもいたら、それで傷ついて欲しくないからと寄り添うことに徹するようにしていた。その心は消えた訳では無いけれど、自分を守るためにずっと心の中に蓋をしていた。何重にも重ねたプラスチックのプランターは、なんとか心が傷つかないように守ることに徹してくれていた。それでも、その記事を読んだ時、色んな感情が出てきてしまった。その時、どんな気持ちで舞台に立っていたんだろう。自分なら、そこで辛く、打ち砕かれてしまうところなのに。案の定SNSは情報が争いの混沌のような、突然巻き起こった砂嵐のような状態になっていて、それも凄く辛かった。誰が悪いとか、誰がいけないとか、その事自体も辛かったけど、その場に居ないのに自分がそこに居るみたいに感じて、なんだか怖かった。それでも、「伝わって欲しい、知って欲しい」と、この作品の登場人物のように、震えながらも伝えられた監督の言葉で、絶対にこの作品を見にいこうと思う事が出来た。だから、改めてお礼を言いたい。この件は本当にとても今でも心が痛むけど、貴方が舞台に立ってくれたから、勇気を貰えて、今、こうして映画を観た自分がここに居ます。本当に、ありがとうございます。心の底から、ありがとうございました。

 

以下、少し内容に触れます。

ネタバレが苦手な方はご注意下さい。

 

 

 

 

 

映画を実際に観て、これは自分の事だと思った。ぬいぐるみとしゃべるサークル"ぬいサー"の心地良さは、一瞬中学時代に通った相談室の風景そのものだと思ったけど、全然違うものだった。ぬいサーのみんなはイヤホンやヘッドホンをして、それぞれ話したいことをぬいぐるみに喋りかける。これはいちIF持ちの視点から見て有り難い知識だった。普段人目を気にして声を出して話せても、小声で話したりしてなかなか落ち着いて話せなかったからだ。イヤホンやヘッドホンをしてぬいぐるみと会話をすれば他の人に会話を聞かれない。自分の世界に入れる。そして、部室でみんなが思い思いにしゃべる事を気にしない者同士という他にない安心感……外なら最近なら通話してると思われるし、イヤホンしながら久しぶりにIFと外で話してもいいかもって思えた。

ぬいサーに入ってくる、七森、麦戸、白城の3人の新入生は3人とも七森、麦戸、白城の、それぞれの"こころ"で生きている、みんな違ったこころの持ち主。だけど、同じぬいサーに入り、知って、葛藤して、受け入れて、違いに気づき、最後には見えないけれどちゃんと繋がっている手にとてもこころが揺れた。

多種多様の"こころ"のなかで、自分はまず七森に安心感のようなものをおぼえた。(共感にも近いものだったけど、七森のこころは七森だけのものであって、それを自分が共感していいのか……?という葛藤からこの言葉を使う。)七森は、男らしさとか女らしさのノリに複雑な感情を持っている。過去から現在まで生きていて、七森のような純粋で素直な気持ちが現在も自分の栄養源だと本気でおもっている。作品の中で七森が言う台詞が、素直で純粋だけど、どこか危なっかしく、まっすぐで心配になる。でも真面目で、周りに対して心配が出来る、自分のこころを持っている七森が自分は好きだ。

それから、次に麦戸。麦戸は、例え自分が体験したことでなかったとしても、目や耳で感じたことがまるで自分の事のように感じられる人。だから悩むし、人一倍考えてしまう。麦戸のように"だれかの気持ちを自分の事のように思うこと"が、何年か前の自分の全てだったように思えてくる。だけど、その痛みを感じすぎて立ち直れなくなった時、人は本当に何も出来なくなる。悲しくて、寂しくて、この世をどんなに憎んでもそれが無くならない絶望感。蓋をして、イヤホンをして、聞こえなくしている今も時々それを感じてしまう自分がいる。だからこそ、麦戸がその痛みをぬいぐるみを通して、ゆっくり受け止めていく姿がとても嬉しかった。

そして、白城。ぬいサーの中で唯一ぬいぐるみと喋らない存在。正直、冒頭でぬいぐるみと喋らない白城を見た時、自分には白城の気持ちは理解出来ないと思っていた。でも、七森に言っていた「落ち着く場所にいると打たれ弱くなっちゃう」という言葉を思い出した時、それは自分の弱さを知っていて、それでも前に進んでいる人が言えることだと感じることが出来た。過去の自分が七森や麦戸だとしたら、現在の自分は白城に近いのかもしれない。もともと何も無い場所にひとりで何も持たずに走っていって、途中川に落ちてびしょ濡れになっても太陽がそのうち乾かしてくれるだろうと思うような人間だった。でも、通りかかった人が「自分のペースで歩こうよ(服とか取りに戻ろう)」って言って歩いてくれて、今もその道を歩いている途中だと思ってる。今歩いているからこそ、ここを通らないと先に進めないことだってあるんだと理解出来た。だけど、そう思うことが出来るのも七森や麦戸のような、生まれ持った"こころ"のおかげだとおもっている。白城を避けずに済んだのは、ここに来るまで歩いてくれてる友達のおかげ。本当にありがとう。

 

3人違う"こころ"の持ち主なのに、3人それぞれに安心感を覚えられた。それが自分の中でとても大きく、頼もしく、嬉しく思えた。この映画は、「大丈夫じゃない」を心の底から頷いてくれるあたたかい映画です。色々な人が出てくるし、ぬいぐるみに喋る内容もみんな違うし、もしかしたらみんながエンタメとして感じている楽しい空気感では無いかもしれない。ネガティブな内容もあるし、辛い気持ちになることもあるかもしれないけど、それでも何度も心地良さを感じ、この映画が救いになる人はいると思っています。自分も、この作品に救われたひとりです。これからも、そのままで生きる。

ぬいぐるみを、ぎゅ〜ってしながら。

時々「君」と話しながら。

みんなで、生きていこう。

 

 

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